アメリカに限らず、文明が進んでいる(と自分たちが思っている)国家や国民はその文明のみならず、時には文化まで押しつけようとする。
 当然、当時のアメリカ合衆国の意向を受けたペリー提督にも同様の場面がしばしばあった。しかし、彼の遠征記や当時の日米双方の資料を閲する限り、基本的には通商の目的を達成する理由で開国を求めてきただけであり、その故に非常に友好的であった。 ここでは紙面の限りもあるので、友好的だった日米交換の様子と、その贈答品等の内容などを、『ペルリ提督日本遠征記』(大正元年発行)とサミュエル・E・モリソン著『ペリーと日本』(昭和43年刊)から紹介する。
 条約文を日米間が翻訳(日本語→蘭語→英語、英語→蘭語→日本語)し、検討をしている間に贈り物を交換したが、この北アメリカ合衆国大統領からの親書と共に、“皇帝”(エンペラー・この頃の諸外国は徳川将軍が日本のトップだと思っていた。後に“大君”と称するようになる)に贈られた品々は次のとおりである。 電信機2個・電線4束ほか1式(横浜と神奈川間)、プランシス金属製救命船3艘、オ?デュボン著図鑑『アメリカの鳥類』4巻・『アメリカの四足獣』3巻、望遠鏡1個、各種農機具、書籍1箱、武器類数箱(ライフル5挺・メ−ナルド小銃3挺・軍隊ピストル20挺・騎兵軍刀12振・砲兵軍刀6振・弾薬函2個)、衣装箪笥1個、香料2包、ウイスキー1樽(=1バレル=7斗9升)、シャンペン数籠、葡萄酒1樽、チェリー酒若干、茶壷若干、柱時計(約3ダース)、農産物の種、軍艦用大盃10個、アイルランド馬鈴薯8籠、ストーブ3個、合衆国の秤・桝・尺度・海図、そして、有名な機関車・淡水車・客車・350フィートの18インチ幅軌道(時速20マイル)など47点である。 これらを見るかぎりとても侵略目的や植民地化しようとしているとは思えない。 アメリカの蒸気船に乗った時に熱心に質問したり、矢立てを出して記録し、絵を描く幕府の役人たち、上陸したアメリカ兵たちがデモンストレーションして見せた電信設備を組み立てるのを手伝ったり、現在でいうジオラマ(鉄道模型)のような鉄道のメカニックに非常に関心を示し、喜々として跨いで乗ったりする姿が報告されていることも当時の日本人の心理や欲求が手に取るように解り、面白い。
 こうした双方の交流に、決して敵対心や敵愾心は見られない。 また、各船には、長い船旅の間の乗組員への福利厚生のためや、上陸時のセレモニー用、また日本へのショ?のための軍楽隊や演劇班が乗船しており、彼らの音楽や演劇なども興味深い。
2〜3書き出してみると、 サスケハナ号の軍楽隊による「ヘイル・コロンビア」演奏(1853年7月・久里浜)。
「トループ・オブ・ファニ?・フェローズ(おかしな仲間たち)」(1853年)。
また「私はカリフォルニアに行ってきた」(1853年)や、白人が黒人に扮して詩を吟唱しての「ジンジャー・ブルー」。
ポーハタン号の“エチオピアの吟遊詩人”(1853年)や「星条旗」演奏(1854年3月)。
ミシシッピー号の演劇班による黒人の踊りや歌(1853年・沖縄)。
サラトガ号の「ホーム・スイート・ホーム」(1854年)演奏。 等々である。
  最後に、徳川幕府による「日米修好通商条約」批准のために、アメリカが用意した旗艦ポーハタン号に乗船して、ホワイトハウスまで行き、当時の第15代大統領ブキャナンと会見した77人の正使(正式な使節団)について少しく言及してみる。
 この条約批准の使節団のナンバー3だった小栗豊後守忠順(上野介)がアメリカで見聞したなかで、とりわけ先進技術の鉄工技術と造船技術に驚き、学び、帰国後ただちに、崩壊寸前だった徳川幕府にもかかわらずそれを実現させたのが横須賀鉄工所と造船所である。
 それらは明治新政府に引き継がれ、鉄工や造船技術、そして短期間での海軍力の整備と増強に大きく寄与した。 これらも、ペリーの来航による日米間の交流がきっかけで始まったものである。 日本の鎖国を打ち破って、日本の近代化の幕を開けたアメリカではあったが、アメリカ自身のほうがその直後に同国人同士が殺し合うという悲惨な南北戦争(The Civil War:1861〜65年)に突入したために、江戸時代の最終時期に日本に関わってくる国は、 薩摩・長州への主にイギリスなどと、徳川幕府へのフランスなどとなった。 ペリーや当時のブキャナン大統領時代のアメリカが求めた日米の良好なパートナー関係は、1945年の第二次世界大戦終戦まで待たなければならなかった。
 最後に、戦後マッカーサー元帥が下田の日本開港記念碑に刻むべく選んだ言葉を紹介する。
「ペリーは日本を侵略しに来たのではなかった。“平和の使者としてきた”」