ペリー提督の黒船が二度目に日本にやってきた1854年、日米和親条約の締結のあと、幕府側の武士一行が停泊中の黒船での米国側の歓迎会に招かれた。 甲板で催された饗宴の場で、 当時のアメリカで最も盛んであった芸能、ミンストレル・ショーが演じられ、幕府の一行は大喜びし、「笑いを噛み殺すのに苦労した揚げ句、死んでしまうのではないかと思われた。彼らは、我々のように大口を開けて笑わないからである。 ダンスがもっとも受けたようだ」と乗組員の一人が残した記述があるという。日本側が残した記録にも、「我が浦賀与力も踊り候者これあり候よし」という記述があるという。
 その「黒船来航と音楽」について笠原潔氏が調べた本が出たのが2001年のことで、それによって、「西洋音楽」が「泰平の眠りを覚ました」様子が知られるようになった。 今回のこのプログラムが案内する催し自体もその本が現れてこそのものであり、笠原氏がつい先年である2008年に57歳の若さで亡くなられたのは残念なことだった。 日本人が西洋音楽に魅せられた様子は、実は、その数年後にも記録されている。 幕府は1854年に開国のあと、日米修好条約の批准書交換のために、最初の使節団を1860年に米国に派遣しているが、五月中旬に首都ワシントンに到着したその使節団が一ヶ月弱滞在していた際に、通詞の一人である、まだ17歳の役人が、嬉々として「いたちがひょっこり」という唄を得意げに歌っていたという。 この「いたちがひょっこり」というわらべ唄は、数年前に英国から米国に渡来したもので、後に日本でも歌われたことがあった。英国では今でも幼稚園などで好んで歌われている。 英国の文豪チャールズ・ディケンズが出していた文芸週刊誌『一年中』の1861年5月11日号の長文記事によると、 「この曲は、使節団の第三通詞である17歳の少年の持ち歌と見なされており、その少年は、りりしい顔立ち、愛嬌ある物腰、優しい気質がゆえに、高慢な使節たちよりもはるかに人々の関心を引いていた」。そしてそもそも、その17歳の立石斧次郎のみならず、使節団の一行の多くが西洋音楽に夢中になっており、 「ワシントンの街頭のバンド、あるいは宿泊先のウィラード・ホテルのピアノが奏でるメロディを耳にして、それをすぐに覚えて繰り返し口にしていた。下級役人には誰しも自分の贔屓の曲があり、第三級の随行員となると、アメリカ人の知り合いと絶えず仲良くして、楽しげで簡単な曲のメロディと歌詞とを教えてもらっていた」。  ただし、そのように日本人が大いに魅せられた西洋音楽は、ミンストレル・ショウの音楽にしろ、ワシントンで親しんだものにしろ、明らかに音階は七音から成るものであり、その七つの音が、主音・主和音の支配のもとに統一された音的関係を形作っている「調性」音楽だった。 別の言い方をすると、主和音、属和音、下属和音から成る機能和声が背景にある。その音楽に合わせて日本人が踊り、自分でも歌ったりしたということは実に興味深い。 当時の日本の音楽は発声も違えばリズムも違い、もちろん音階も違う。音階は、沖縄音階はさて措いて、「江差追分」などの民謡音階(ラドレミソラ)、 「ひえつき節」などの律音階(ソラドレミソ)、それに「ひとつとせえ〜」で始まる「数え唄」などの都節音階(ミファラシドミ)の三つであり、いずれも五つの音から成るもので、そこからは西洋的な意味での和声は生じない。そんな音楽が日常であった日本人が、西洋の音楽に魅せられたのだった。 あまりにも違うからこそ魅せられたのだろうか。そして、正に「好きこそ物のじょうずなりけれ」であり、異世界の音楽を自分でも口ずさめたということなのだろうか。
 西洋文明を取り込むのに懸命となる明治時代に入ると、大きく分けて、一つには、各地の諸藩がこぞって導入していた西洋軍隊組織の一環としての軍楽隊が、西洋音楽を日本人に浸透させるのに大きな影響力を持ち、もう一つには、小学唱歌が西洋音階の歌を、学校教育を通して日本人に浸透させた。 それによって、日本人が西洋音楽に馴染んでいき、その延長線上に、西洋音楽を当たり前とする後世の日本人の音楽活動がある。  その日本人が西洋音楽に目覚める発端が、記録上、ペリー提督の黒船艦隊、そして万延元年の遣米使節団にあったのだった。