今日の研究では、ペリー来航は、近代国家の物量・技術力に根ざした雄々しい壮挙ではなく、イギリス海運の補給地を借りた、 ギリギリの遠征であったことがわかっている。ペリーはそれゆえ、幕府に対して武力を誇示してでも交渉を有利にすすめ、「日米和親条約」締結を成功のうちにおさめる必要があった。
同行した絵師ハイネが描いた「横浜上陸図」によれば、沖に碇泊したすべての艦船が船腹を陸側に向けている。船の巨大さを誇り、ときに威嚇的に空砲を放ったが、そのような武威とはうらはらの切実な事情がペリーの側にもあったのである。
 艦隊が横浜沖にあった嘉永6(1854)年2月15日。武州橘樹郡市場村(鶴見区市場上町・下町)の名主役・添田知通は、幕府役人で川崎領海岸の警備を担当していた秋葉金次郎に誘われ、横浜に出向いていた。深夜に鶴見を発った知通は、 秋葉と東海道を下り、午前6時頃野毛山にさしかかったところで、「停泊舟にて大砲一発打ち放したる時は不意にて驚駭」と、空砲の「おもてなし」をうけている。それは、「不意」なことで驚いたことも事実であろうが、なによりもその音量の 大きさに肝をつぶしたものと思われる。
 知通が横浜に出向いた日、艦隊員一行はバッテイラ(短艇)24艘で上陸した。音楽隊と鉄砲隊が先着し、これに上官が続いた。知通は「音楽の拍子、鉄炮組の行列、よくその指揮合図の届きたる体、 実に感じ入るにたえず」と、軍楽のリズムと鉄砲組の行進の整然としたさまを強く印象に残し、日誌に記録した。近代軍隊の規律など未体験な当時の日本人には目の覚める思いであったろう。  この日はおみやげ、すなわち献上品を陸揚げする日 であって、ペリーは横浜に上陸していない。将軍への献上品は4分の1スケールの蒸気機関車や電信機、救命艇、農耕機具など。将軍御台所へは花模様刺繍の絹ドレスや香水6ダースなどが、悪天候のなか、つぎつぎと運び込まれた。知通が「頭取 とも言う人物衣装の立派なる事、目覚ましき出立ち」と認めたのは、当日の指揮をしたマセドニアン号艦長のアボット大佐であったろう。 ペリー艦隊の隊員は、長い海上生活のはての久しぶりの陸地で、住民との接触を求めていた。前々日の13日 には上陸した隊員が横浜村の子どもたちにパンを与えて親交の情をあらわしている。またこの15日も、艦隊員が「小六」なる者の家で麻裏ぞうりを買うという行動に出たり、別の者が年寄役太郎左衛門家で飲酒して、西洋剣術の型を披露したりし ている。さらには、ピッチンガーという牧師は、禁を破って東海道を江戸に向かって歩行し、幕府役人らを騒然とさせる事件をおこすことになる。皆が皆、艦上生活にあきあきし、人とのふれあいを求めていた。知通が記した日誌にはそのような 艦隊員のいらだちに似た思いと解放されることへの希求がみて取れる。 艦隊員が規律を逸脱した行動を示したとはいえ、上官が同調することは許されない。
「日米和親条約」の締結の見通しがついた2月29日、ポーハタン号艦上でペリー側が催した日米交歓会は、幕府役人の「おもてなし」であるとともに、艦隊の上官たちの労いを兼ねた盛大な饗宴であった。 ここで催された音楽会やミンストレル・ショーについては原稿依頼者の意向であるので、ふれない。料理はパリ生まれの料理長が腕をふるい、さまざまな装飾を施した料理がふるまわれた。ハム、舌肉、塩漬けの魚、野菜、果物。シャンパンや ぶどう酒。幕府側代表の林大学頭をふくめて、よく食べよく飲んだばかりでなく、残った食事を懐紙に包んで持ち帰った。肉もシチューも貯蔵食もごちゃ混ぜにして…。そして食卓の上の食べ物は「すべて魔法にかかったように消え去っ」 ていったのであった。
ペリー来航とそれに続く条約交渉のときは、日本と欧米の文化の接触はあったが、交流の場という水準のものではない短期間であった。互いに十分には理解し合えず、記録されたかぎりであった。 しかし、それでも日米両国の歩み寄る歴史はここに始まったことも事実である。そして音楽については、悲しいことに日本人「固有」の音楽はほとんど消滅している。今回の催事でその嘆きを語ることはしない。 幕末の「耳」に届いた西洋音楽の響きを理解することで、よく知ったポピュラーに楽曲も、また新鮮な響きでとらえられることを今回の催しに期待する。

            横浜開港記念館主任研究員 平野正裕/ひらのまさひろ