親愛なる日本の皆さんへ。
 親愛なる私の日本の友人の皆様へ 。創設された国際音楽文化地域交流協会の創設のことを伺いました。2014年のこのコンサートと同時に協会の創設が祝われることをとても嬉しく思っております。この協会にが成功を収められますようにそして長い年月の文化の交流とまた交友の精神の中に文化をより豊かにすることに貢献することを祈ります。

 私にこの一文を所望されたのはマシュー・ギャルブレス・ペリー提督と私が同じ祖先を持つからなのです。1,600年代に一組の夫婦が宗教の自由が認められているアメリカで新しい人生を始めるためにイギリスを旅立ちました。彼らはクエーカー教徒でした。クエーカー教徒はとても高い倫理的な水準を持っています。私の母方の祖母はペリー姓でした。ですから私はペリーの血縁なのです。日本に半年ほど居住した体験から(2012年9月から2013年2月まで)私は以前にも増してペリーの後裔であることを誇りに思うようになりました。そしてそれは私の日本人に対する親しみをより強く強固ものにしています。私の祖先がそもそもそのプロセスを始めた条約が署名された場所、横浜で教えることができたのですから、それは素晴らしい事でした。 日本からアメリカには多くの日本人がまいります。その中には私の友人であり、同僚でもある宮本(旧姓赤地)智子がいます。彼女はボストンのザニューイングランド・コンサーバトリー・オブ・ミュージックで私と共に学んだ人です。宮本先生は横浜のフェリス大学の教授でいらっしゃいます。そして彼女のおかげで私はフェリスで一学期招聘教授として教えることができました。彼女の信頼と冒険の精神に私は深く感謝する次第です。なぜならこの経験によって私は日本文化の極めて複雑かつ個性的な性格を非常に深い次元で体験することができたからです。

 私は日本によって魅了され驚かされることを期待しておりましたが、日本と恋に落ちると言うことは期待しておりませんでした。 アメリカ史の中では、特に私の家族の目から見た歴史の中では、マシューペリーよりも彼の兄のオリバー・ハザード・ペリーの方がより重要な人物だと思われています。彼は海軍の英雄でした。イーリー湖の戦いで、イギリス軍に勝利したことによって知られています。私はマシュー・ペリーは知っておりました。家には美しいとても古い紅茶のカップと受け皿があり、カップと受け皿の両方にUSSポーハタン号の絵 が描かれておりました。私はこの紅茶が取っ手がないことを発見したことを記憶しております。そして何故取っ手がないのか不思議に思っていました。実は私の祖母の家には他にも沢山の日本の品物がありました。しかし今思い起こすとこれらは祖父が20世紀の初頭に日本の宣教師であった彼の患者からギフトとしてもらったものだと思われます、紅茶の 茶碗そしてその受け皿はより古いもので、おそらく明治時代のものだと思われます。

  何ということなく私はペリー提督は日本に武力で侵入した帝国主義者だと若干恥ずかしく思いながら成長したのです。そして私は日本で反感を持って迎えられるのではないかと危惧しておりました。そして初めて、日本においてペリーが彼の神奈川条約がもたらした変化に対してどれほど尊敬されているかと言う事を発見して驚かされたものです。 ぺりーの日本遠征は非常に多くの困難を日本にもたらし、そして明治時代が始まる前に長い期間の内乱の時代があったことを私は知っております。しかし大多数の現代の日本人は日本の開国は避けることができないことであり、また鎖国は誰の得にもならないことだと感じています。それは私にとって心地よい驚きであり、私がペリー提督についてより学習することになるきっかけとなりました。

 私は昔から2つの異なった文化の遭遇は極めて魅力的な現象だと思ってきました。あらゆる場合にそこには双方から何かが持ち込まれ、何かが持ち去られます。下田、横浜、函館そして那覇において1853年から1854年にかけて行われた遭遇は、極めて興味深いストーリーを構成するものです。

 マシュー・ペリーは海賊と奴隷の貿易の弾圧に関わった海軍将校という経歴を持っていました。彼は初代のアフリカ艦隊の総司令官として西アフリカ沖合いの奴隷貿易を中断させる任務を与えられました。そして彼はまたアフリカのリベリアに解放されたアフリカ奴隷の居留地を作ることに関わっていました。黒船遠征に至るまでの年月の中で彼は効果的な外交官となりました。そしてこれがなぜ当時のアメリカ大統領だったミラード・フィルモアが1853年に「砲がん外交」 の任務を彼に与えたかを説明するのかもしれません。大統領はペリーに日本の天皇に書簡を渡す任務を与えたのです。 フィルモア大統領は彼の手紙を「天皇陛下」に当てており、アメリカ合衆国と日本が友好関係を持ちそして「通商関係を持つこと」を提案しています。大統領は天皇が5年か10年の間、古来から存在する外国との通商を禁じる法律を一時的に停止することを試みることを考慮するように強く要求しました。また彼は両国が交易することか「日本とアメリカ双方の利益になる」ことを主張しました。フィルモア大統領はさらに、ペリー提督を日本に送るに当たっていかなる形であれ彼が「陛下の領土の平穏を妨げることをしてはならない」と言う厳しい指示を与えたことを強調しています。 この書簡は日本の石炭の豊富なことを論じ、(これはアメリカの船舶がアジアにおいて蒸気船を稼働するのに必要であり)またアメリカの金、銀、水銀そして貴金属の豊富なことも論じています。書簡はまた「陛下の臣民の中の多くの工芸品の技を保持しているもの」についても言及し、これらの全てにおいて両国はその富を共有すべきであると感じていることを述べています。 日本への航海に旅立つ前、ペリー提督は徳川時代の日本について書かれた手に入る限りの書物を読みあさりました。日本が約二百年の鎖国を解くことが自国のために有利である事を説得することに成功しなかった、過去に日本に派遣された船隊についても学習したのです。 彼の調査は日本と交渉するにあたって重要な三つの要素を理解することに貢献しました。それはまず政治の序列と権威を尊重すること、危害につながった行為に対して責任を取ること、そしてホスピタリティ(おもてなし)でした。 そしてそれは物惜しみしない、日本の素晴らしいおもてなしの文化に対するペリーの尊敬の念が、彼をして日米間の通商条約を交渉する相手である日本の役人を船上に招き、もてなすことにつながったのです。

 アメリカ人は実に美味な食事を出し、ウイスキーやタバコをシェアし、そしてポーハタン号の船内を案内しました。そしてさらに黒船を訪問した日本人のために船上で演芸の公演を行ったのです。幸運なことに、当時の公演のプログラムのいくつかは保存されており、遠征について書かれたアメリカ人の手記のなかには1854年3月の涼しい夕べの来客の反応を書いたものもあります。 マシュー・ペリーはあらゆる種類の音楽を愛した人でした。そして彼は軍楽隊のみならず当時アメリカでポピュラーだった音楽も日本にもたらしました。アフリカにルーツがあるバンジョーは、最近アメリカで一般に広まり、非常に人気のある楽器となりました。このバンジョーこそが船上にて公開されたミンストレル・ショーの中心となるものでした。ミンストレル・ショーは歌と寸劇と踊りのバラエティショーでした。当時でさえやや物議をかもす演劇でしたが、これは当時の国家芸術と言うべきものでした。ミンストレル・ショーは当時物議をかもしましたが、(今ではさらにそうですが)それはこの演劇は黒人を白人に劣っているように描き、黒人の話し方や行動をからかっているからです。この演劇はまた黒人を行き当たりばったりの道化のように思わせる内容を含んでいます。当時の奴隷制度の目に余る状況に耐えていたアフリカ系アメリカ人の精神的また心理的な力に白人のアメリカは真の尊敬をまだ持っていなかったのです。 しかしミンストレル・ショーは当時のアメリカで最も人気のある演芸でした。それが理由でペリーはこの演劇を日本の人たちとシェアするためにもたらしたのです。演奏者は顔を黒塗りし、楽器を持ち、そして踊ったのです。

 1853から1854年の間に日本の人たちは軍楽隊とバンジョーの演奏を初めて聞きました。汽船、ボタン、銃、電報そして蒸気機関車とともにアメリカの音楽は確かな印象を残しました。バンジョーは当時の日本文化の中にその存在を明らかにしました。東京には一千個以上のバンジョーの個人的なコレクションがあることを私は発見しました。今回日本に来るまで私は日本人がバンジョーに興味を持っているなどとは全く知りませんでした。 私は今回の地域音楽文化協会の設立が、文化の大使として貢献する可能性を秘めた音楽の力を尊重するコラボレーションを促進し、日本においてアメリカと日本が持ったあの遥かかなたの一夕の精神を維持することを希望します。個人的にはさらにこの有名な19世紀の遭遇についてより深く学習し、そして特に日本人がこの会合について 当時如何に感じたかを知りたいと思っております。例えば次の様な質問について自分なりの答えを出したいと思っています。

  1853年アメリカの船乗りたちは日本の音楽を聴く機会があっただろうか?
当時の日本の宮廷の音楽そして庶民の音楽は一体どういうものだったのか?
 三味線はどれぐらいバンジョーに似ているのだろうか?
 アメリカ人が日本のおもてなしについて書き残したものは何か残っているのだろうか?
 なぜ今日日本で聞こえるアメリカの音楽の方がアメリカで聞こえ日本の音楽より多いのだろうか?
 日本人の最初のバンジョー奏者はいかにそしていつバンジョーを習い始めたのだろう?
 1854年にアメリカ人が去った後にミンストレル・ショーが日本で演奏されることはあったのだろうか?
 個々の日本人は初めて聞くアメリカの音楽にどう反応したのだろうか?
 観客としてのみなさんは今日聴いている音楽にどう反応しているのだろう?

 19世紀中ほどの日本の文化について、そしてその文化の全く異質の文化との遭遇について、私が生きている間に私の興味を満足させられるとは考えられません。その興味の追求の中で皆さんの中の何人かとお会いしたいと思っています。 いずれにせよ今日は皆さんが国際音楽文化地域交流協会の設立を祝う中でこの音楽を楽しまれることを期待します。

「さようなら!」それとも「じゃ、また」と申しあげましょうか。