もっともわくわくする幕末という時代 作家 東理夫
 

ことの始まりは、と江戸後期からの出来事を羅列しても、おそらくは何の意味もないだろう。
この世のすべてのものは、生まれた瞬間から酸化への道、腐敗への一方通行をひた走るように、時代というものもまた満ちた後は衰退へと向かい、やがて次の新しい芽生えをみる。
その交代期のひとつが、幕末であった。いや、そういう交代期であったからこそ「幕末」と呼んだのだ。


ぼくには、この幕末がとても面白い。胸が弾み、彼らの息づかいを感じて心が踊る。維新になってしまっては、この気分は半減する。
 幕末の面白さの根底には、「幕末」を迎えることになった大きな原因のひとつが「漂流民」という庶民の力によるからだ。日本の漁船、廻船などはよく嵐に遭い、漂流することがあった。 海流の関係から、ジョン万次郎を初め多くの船乗りは、鳥島に漂着することが多かった。名前の通り、アホウドリの密集生息地であったこの島はまた、当時「ジャパン・ラウンド」と呼ばれる捕鯨海域の中にあり、 アメリカの捕鯨船にとってもここは休憩地であり、アホウドリを捕獲しての食料基地でもあった。  万次郎は、そのアメリカの捕鯨船にアメリカに連れて行かれる。10年間ボストン近郊で暮らし、教会に通い、 結婚しようとまで思った女性のいたこの男や、もう一人の漂流民、少なくと三人の大統領に面会し、 日本という国の話しをしたジョセフ彦などの存在で、アメリカは中国や琉球王国ではなく、日本という国に近 づこうとやってきた。
開国を迫るペリーらが周到であったことは、彼の訪日二年前に万次郎を日本に返していることでもわかる。万次郎は、帰国後土佐藩に士分として取り立てられ、坂本龍馬や後藤象二郎、岩崎弥太郎らにアメリカ という国のことを語る。 それが幕府の耳にも届き、彼らの認識が変わる。
「ジョン万次郎スパイ説」はこのあたりから始まっている。しかし、日本が本当に「幕末」を迎えるのは万次郎や彦以外の多くの漂流民 たちが日本に戻って来た時に、取り調べにあたった役人たちに外国の話しをしたことの方が大きかった。そうやって幕藩体制は、内部から少しずつほころびていった。
 ペリーの第一回訪問は失敗に終わった、と言われる。高飛車な態度や武力による開国要請、あるいは中国や琉球で仕入れた日本国知識の誤解と誤情報などによるとされるが、それ以前に日本側の頑さもあった。 鎖国の壁はそうやわではなかった。その壁を破ったのは二度目の訪日での、ミンストレル音楽だったと言われている。そのことはここでは省く。ただ、ミンストレルの楽士たちはアイルランド人が多く、彼らの演奏 したミンストレルの曲の多くはフォスターの楽曲だった。フォスターは、アイルランドの詩人トーマス・ムーアの詩とメロディーに大きな影響を受けた。だから、フォスターの曲はアイリッシュたちに大人気だった。
アイリッシュは、音楽人間でもあった。集まれば楽器を弾き、踊る。ミンストレル・メンバーのほとんどは彼らアイリッシュだ。そのことは書いておきたい。
 ペリー二度目の寄港によって日米和親条約を結んだ幕府は、初代領事のハリスとの間に「日米修交通商条約」を結ぶ。この不平等条約を批准するために、アメリカからの「ポーハタン号」で正使新見正興らはアメリカに渡った。 ポーハタンは、イギリス最初の植民地であるヴァージニアのネイティヴの代表で、ポカホンタスの父親の名前である。ポカホンタスはイギリス人と結婚して、アメリカン・ネイティヴとイギリスの友好をはかった。 その父親の名前の船を派遣することで、アメリカは日本と友好を願ったろうことはわかる。  随行船の咸臨丸での勝海舟は終止船酔いに悩まされたが、通訳の福沢諭吉には大望があった。 初代大統領ワシントンの子孫に会いたいということだった。だが、アメリカでは誰も知らなかった。そこで彼は人が偉いのではなく、人が作った法のもと誰もが平等だと知る。少なくともそれが理想だということを。 独立宣言文にある「All men are created equal」の一節が彼をして、人の上に人を作らず、の「学問のすすめ」を書かせることになる。
 通商条約を批准しにいった彼らは、ニューヨーク、マンハッタンをパレードする。その時の彼らの凛々しく礼儀正しい姿、武士としての誇りと清々しさは多くのアメリカ人に感動を与えた。
その姿はアメリカの国民的詩人のホイットマンの「マンハッタン・ページェント」に感動的に描かれている。 ペリ-のミンストレル楽団は、日本人の胸襟を開かせた。素晴らしい幕末だった。
可能性に満ちた未来を約束するような、ミンストレルの音楽だったろうことは想像に難くない。それからの日本は、このミンストレル音楽が花開かせたといっていい。