古来、音楽は人をつなぐ架け橋でありました。人が出会うところに歌がありました。言葉を超え、 民族を超えて人の心を結んできたのが音楽であり、歌であり、文化でありました。 地域を隔てた人と人とが行き交うところに異なる文化と文化が出会い、歴史を前へと進める。このことは、あらゆる地域にも民族にも通じる普遍の法則ではないでしょうか。


 
私たちは日本におけるその最も顕著な史実を、1854年3月27日、江戸湊の入り口に浮かんだペリー提督率いる黒船艦隊での出来事に見い出します。 日本を開国へと導いた「日米和親条約」の締結4日前、 ペリー提督は幕府の要員を艦上に招き、「ミンストレルショー」を披露したのでした。 当時の米国で一世を風靡していた音楽と踊り、そして芝居で構成されるエンターテイメントでした。 日本において西洋ポピュラーミュージックがエンターテイメントとして公式の場で初めて披露されたのでした。  バンジョー、ギター2人、フィドル2人、フルート、トライアングル、ボーンカスタネット、タンバリンからなる9人編成の楽団による音楽を中心にしたエンターテイメントは、国際交渉という重責で緊張を強いられていた幕府側の応接要員を大いに楽しませたと記録されています。
 ペリー提督の側には、交渉を成功させたいという政治的な思惑があったのは当然です。ですが、人種・民族の壁を越えて人と人との関係を取り結ぶ確かな「おもてなし」の力がそこにはありました。でなければ、感極まった日本の「サムライ」がペリー提督の肩に手を回すことはなかったでしょう。  振り返れば、戦国の世にも南蛮貿易・キリスト教伝来を通じた音楽との出会いがありました。さらに遠く天平の時代、大仏開眼の法要も大陸より渡来した種々の音楽で荘厳されていたとのことです。 他にも多くの音楽や歌と私たちの祖先は新たな出会いを重ねてきたのです。 歴史をめぐっては国や民族を主役とした政治史が多く語られます。ですが、音楽が、歌が、そして文化が、人と人とを、地域と地域とを結んできた足跡に思いをはせる時、歴史研究に新たな視点を提供するだけでなく、現代を見つめる眼も深まるのではないでしょうか。
 

  音楽や歌を中心に、文化が異なる地域に住む人々をどう結んできたのか。そのことを探求し、現代によみがえらせることが、人種、民族、国家、地域の間の相互理解と友好親善に寄与することを私たちは信じます。
そのことを願って、私たちはここに「一般社団法人国際音楽文化地域交流協会」を設立します。